60年前の快挙ご存じですか
平成9年5月8日の東奥日報に掲載された記事です


 第二次世界大戦の暗雲が立ち込める昭和13年、航空機の航続距離 世界記録に挑み見
 事達成した県出身の男三人がいたということをご存じだろうか。三人の名は藤田雄蔵
 (当時陸軍少佐、弘前市)、工藤富治 (東京瓦斯電気工業=現日立製作所=機体工場
 長、むつ市)、木村秀政(東京帝国大学航空研究所技師、五戸町)。木村は戦後、傑作
 旅客機YS11の成功を機に、設計者としての名誉をほしいままにしたが、残る二人を
 現在語る人は少ない。時代の寵児(ちょうじ)ともてはやされな がら、戦争という大
 きなうねりにのみ込まれ、歴史の波間に忘れ去られようとしている二人。「あの日」か
 ら六十年目の今年、彼らに再びスポットライトを当て、記録にまとめようとしている人
 が青森市にいる。
                           (文化部・斉藤光政記者)

        藤田少佐が操縦した航研機。空気抵抗を最低限に抑えるた
        め、鉛筆のように細い機体が特徴(三樹書房「航研機」から)




この人は同市沖館三丁目、自動車販売会社経営の大柳さん(六十三)。飛行機マニアの大柳さんはこの世紀の出来事が幼いころから頭を離れず、関係する本があれば読みあさったという。特
に、県人三人が深くかかわっていることを知ってからは「すっかりはまってしまった」という。しかし、半世紀以上たった今、世界記録には触れても三人の人間像に言及するものはほとんど
無い状態。このため大柳さんは「日本の工業技術が低水準にあえいでいた時代に大きな夢を持ち、それに向かって走り続けた県人がいたということを子供たちに知ってもらいたい」 と記録に
まとめることにした。

藤田少佐らが世界記録を樹立したのは昭和十三年五月十五日。陸軍でテストパイロットを務めていた藤田少佐は東京帝国大学航空研究所(航研)が設計した通称「航研機」の操縦かんを握り、千葉県木更津の海軍飛行場を離陸。木更津ー銚子ー太田ー平塚を結ぶ一周約四百㌔のコースを六十二時間をかけて二十九周し、一万一千六百五十一㌔の周回連続飛行距離世界記録を達成した。併せて平均速度記録(一八六.七㌔)も樹立した。

世界一流の技術者

この時、地上で見守っていたのが機体製作責任者の工藤。工藤は仏の航空機メーカー・ドボアチン社で技師の養成に当たったこともある当時、世界一流の技術者。軽量で頑丈なジュラルミン材を初めて航空機に使用したことでも知られ、その技術は航研機開発に遺憾なく発揮された。同十七年には故郷の大湊に工藤航空機製作所を設立、同三十四年に死亡した。一方、木村は航研に入って日も 浅いことから、脚などの設計に携わった。その後、藤田少佐は九七式司令部偵察機、一〇〇式司令部偵察機といった長距離偵察機の開発に参加、世界に先駆けて「戦略偵察」の思想を具体化した。 しかし同十四年、新型爆撃機の試験飛行中に中国戦線で不時着、部下五人とともに戦死した。

工藤富治工場長(むつ)        木村秀政技師(五戸)

陸軍屈指の名パイロットといわれた藤田雄蔵少佐(弘前)



     飛行機マニア大柳繁造さん(青森)
                                                                  





 風化する記憶取材し出版へ

 大柳さんは二年前から本格的に資料収集に取り組み始めた。 当時の航空雑誌や新聞の切り抜き、学術誌・・・。県内に
 は絶対数が足りないことから、東京、埼玉など関東地方の古書店を巡り歩く日も続いた。その結果、事実関係については
 ほぼ調べ終わった。


 娘と孫を探し当てる

 問題は二人を知る関係者。六十年もの月日は記憶を風化させる。幸い、昭和十年代の雑誌からは藤田少佐の墓が弘前
 市新寺町の真教寺にあることを知った。また、 長男は五年前に亡くなっていたものの、長女と二女が千葉県と名古屋
 市に、直系の孫が神奈川県葉山町に住んでいることを探し当てた。 大柳さんはこうした関係者の取材をさらに進める
 ことで、藤田少佐と工藤工場長の姿に肉付けする予定だ。大柳さんは「設計者、製作者、パイロットが一つになって
 はじめて優秀な飛行機が生まれ、記録が作られる。その点、藤田少佐ら三人のチームワークは素晴らしかったといえ
 る。県内の航空史といえば、木村秀政さんばかりクローズアップするが、彼のほかにも世界一級の航空人が県内にい
 たことをもっと知ってほしい」と話している。記録は本として出版する予定で、藤田少佐、工藤工場長について知る
 人があれば大柳さん(電話0177-66-0220)まで連絡してほしい。
     藤田少佐の墓を訪れた大柳さん